【エッセイ】「いただきます」という言葉の背後にあるものを考える

「いただきます。」
日本人にとってはありふれた言葉だが、世界では、あまり使われる言葉ではない。

中学2年生の時に、ドイツでホームステイをした。

ある晩の夕食、庭でホストファミリーとバーベキューをした時のこと。食事前、いつものように、僕は「いただきます」を言った。そんな僕を見て、ホストマザーは不思議そうに言った。

「それって、どういう意味?」

「わからない、でも、たぶん、食べ物に感謝してるんだと思う」

拙い英語でそう答えたけれど、たぶん、僕も「いただきます」の意味なんて説明できなかった。

それから6年後、ネパールという国の農村に滞在したときのことだ。
とっても優しい村のおじさんは、普段はあまり食べないという鶏肉をご馳走してくれた。

おじさんは道端を歩いている鶏を片手で捕まえ、鉈で、その首を勢いよく叩き切った。小さな叫び声がして首が落ちた後も、まだバタバタと動く身体が目に焼き付いた。5分前まで元気に歩いていた鶏が、肉塊に変わり、僕たちの夕食になったのだ。

でも、満天の星空の下で、焚火を囲んで食べる鶏肉は、今まで食べたものの中で最高に美味しかった。おじさんは屈託のない笑顔で言った。

「どうだ?メシ、最高だろ?」
「そうだね、とっても美味しい」

その時、これが本当の「いただきます」なんだと初めて知った。

日本では「生き物の死」は遠ざけられている気がする。鶏肉はスーパーに行けば、パックされているし、お刺身だって丁寧にカットされて、飾りのタンポポも綺麗だ。

そこに「生き物が死んだ」という事実は全く見えてこない。でも、そこには人間が生きるために、奪われた「生」が必ずあるのであって。「いただきます」の背後にある「死」について、目を向けられる人間になりたいと思った。